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今月のコラム 生田勝義(2014年10月) 刑法学雑感 ――古稀を迎えて、その後の自分史――

1 古稀を迎えての所感

 この10月25日をもって満70歳となり、古稀になります。古稀は、数え年で数えた昔でも「古来稀なり」とされていたのですが、高齢社会の今日では普通のことになりました。女子に続き男子の平均寿命もついに80歳代に乗ったとのことで、傘寿も平均というわけです。

 年を取ると心身の衰えは否めません。けれども、「亀の甲より年の功」とも言われます。長い人生経験から得られる知恵や教訓は捨てたものではありません。私も、できるだけまわりに迷惑をかけないようにしながらですが、この世におさらばするまで前を向いて歩き続けたく思います。

 

2 その後の自分史とは

 人生の節目ごとに自分史を振り返り今後の糧にすることが大切だと言われます。しかしながら、私自身は、65歳になって大学を定年退職するまで過去を振り向くだけの精神的余裕なしに走り抜けてきたというのが実感です。それでも、立命館法学編集委員会の計らいで、定年直前に大学人としての自分史を振り返り語る機会を持つことができました。その内容は、「生田勝義教授オーラルヒストリー」との題名で立命館法学(2009年第5・6号下巻)に掲載されています。

 今日は、そこでは語り切れなかったことやその後の自分史を記してみます。

 

3 ひとつの夢

 公民権運動で有名なキング牧師は、1963年8月「ワシントン大行進」の演説において” I Have a Dream”という言葉で想いを語りました。不肖ながら私にも、ひとつの夢があります。

 それは、人々が暴力に拠らずに助け合って暮らせる世の中になることです。この暴力には、私人間のものだけでなく、社会的暴力や合法的な国家的暴力も含まれます。この夢は、ある日突然に一挙に実現するものではありません。何十年間隔で行きつ戻りつしながら、まさにらせん状に前進していくものでしょう。振り返りますと、私が若き日に刑法の研究を志すにいたったのもそのような夢の影響が大きかったように思います。

 

4 私の夢と「現代の人権」

 ここ数年にわたり私は、立命館大学で特任教授として法学の専門科目だけでなく「現代の人権」という教養科目の授業も担当してきました。この授業の大きな柱の1つが、「自由」と「安全」という近代法的人権の現代的意味を考察するというものです。この考察の過程で上述した夢も学生たちに語り、考えてもらってきた次第です。

 今日の憲法学の中には、近代法的「自由」は財産と教養のある「市民」の権利でしかなかったというふうに批判的にとらえて事足れりとするものもあります。けれども、私は、近代法が正当化根拠とした普遍的人権という理念は現代においても受け継ぎ発展させるに値するし、また、させなければならない、と考えています。「自由」が「人」の権利とされ、「第3階級、それはすべてである。」(シェイエス)とか、「友愛」が革命のスローガンの1つであったことに思いを致すからです。それとともに、近代における法と倫理・道徳の区別・分離とか、法的自由と社会的友愛との区別・分離とかの今日的意味を自称「社会主義国家」や「福祉国家」・「社会国家」の負の側面、さらにはそれらに対する批判から登場した「新自由主義国家」がもたらした負の経験、に照らして改めて検討してみる必要があるのではないかということです。その概要は、「現代の人権」の最終回授業で配布した教材「自由と友愛、連帯」で示したところです。この内容は、私の刑法理論とも関係しますので、参考までに[資料]として後掲しました。

 

5 厳罰主義と新自由主義や新保守主義との関係

 世紀の転換期に生じた厳罰化現象は、新自由主義(ネオ・リベラリズム)政策による社会変動が人々の意識に与えた影響によるところが大きい。私が両者のそのような関係に危惧の念を抱き始めたのは1980年代の半ばでした。その後の政治・社会過程は私の危惧した通りに展開しています。

 厳罰化現象を新保守主義と関係させてとらえる見解も有力です。けれども、新自由主義が資本の自由を解き放つことにより資本主義の危機を打開しようとするものである以上、それが新保守主義とも親和性をもつのは当然でしょう。問題は、新保守主義でなくとも新自由主義にからめとられる限り厳罰主義に行き着かざるを得ないのか、にあります。私は、新自由主義の(政策実体とイデオロギーの両者における)論理を分析し、それからすると厳罰主義に行き着かざるを得ないのだと考えるにいたりました。私が、新保守主義との関連にあまり言及しないのは、その関連は本質的なものではないと考えているからなのです。

 2008年9月のリーマン・ショックにより新自由主義への信奉がゆらぎ、友愛とか連帯を重視する政治社会への転換が始まるのではないかと思わせる政治状況が現れました。米国でのオバマ大統領、日本での鳩山民主党政権の誕生などです。この新しい政治・社会状況が厳罰主義にどのように影響するのかということは、新自由主義の帰趨に関係すると述べたのが、定年後に出版できた『人間の安全と刑法』(法律文化社、2010年11月)です。その後の展開は、新自由主義がまた跋扈し始めており、引き続き厳罰主義が勢いを維持しているということです。そこで、喜ぶべきか悲しむべきか、その拙著は現状分析部分を含めいまだ命脈を保ち得ているように思います。

 

6 「その後」における刑法に関する私見の展開

(1)自由と安全が両立する法政策とは

 現在の法現象について「自由に対する安全の専制」といわれることがあります。そこでは「安全」は人権でないかのような理解が見られますが、果たしてそうなのでしょうか。上述した拙著『人間の安全と刑法』は、「自由」と並び「安全」も近代的人権の一種であること、したがって両者が両立できる法体系がありうるはずだとの想いで、刑法やそれ以外の規制法、さらには社会の在り方につき、それらの内容や相互関係を論じたものです。個別的には個々の論考ですでに述べていたものを、「自由」や「安全」という人権の内容、権力的規制の抑止力や警察力などの分析を含め全体を見渡せるように1つの本にまとめてみました。理念型の市民刑法である「核心刑法」、広範だが穏やかな介入法、介入法の2つの形態(権威主義的抑止型と人権保障民主主義型)への整理、連帯と包容のコミュニティづくり。それらの包括的法政策によって「自由」と「安全」の両立・調和が本当の意味で実現できるのではないかと考えたわけです。

 

(2)手掛かりにできる実例はあるのか

 その包括的法政策の有効性と実行可能性を実証しようとした論考が、「刑罰威嚇に頼らない環境保護条例--琴引浜『禁煙ビーチ』の取組み--」(立命館法学2012年5・6号所収)です。それは、喫煙とかタバコのポイ捨てという迷惑行為を住民による啓発活動やパトロール活動でなくし「禁煙ビーチ」を実現した事例を分析したものです。条例(=法)という「お墨付き」が持つ運動への効果。それがあれば刑罰をはじめとする権力的規制に拠らなくとも効果を上げることができるということ。実例を分析することによって、その成功要因を明らかにしました。

 

(3)「社会侵害性」概念の整理

 法益概念が個々の犯罪類型や違法性の実質的内容を明らかにし、しかもそれらの法的安定性を確保する上で重要であることに変わりはありません。けれども、すでに周知のように、そこに大きな限界のあることも確かです。

 私がとりわけこだわったのは、法益が違法に関係するとされながら、また違法には質があるといわれながら、従来の法益論では犯罪と不法行為とを違法のレベルで区別できないということです。

 それにもかかわらずそれがあまり問題視されなかったのは、刑法を社会統制手段の一種であるとしか考えない道具主義的な思想が基礎にあるからではないか。しかも、それが刑罰法規の氾濫をもたらしているのではないか。

 そのような疑念から、またそれに応えうる概念として、わたしは「社会侵害性」という概念を提起しました。犯罪は単に法益を侵害する行為にとどまらず、社会侵害行為でもなければならないというわけです。そして実は近代刑法原理である行為原理にはこの社会侵害性も含まれていたのです。

 社会侵害性で重要なのは、その「社会」とは何かという点です。ドイツのアーメルンクはその概念が近代啓蒙刑法思想に由来することを指摘しながら結論的には現代システム論の社会概念に行き着きました。けれども、それでは言葉は同じでも中身は全くの別物になってしまったと思います。それに対し私は、社会概念を事実的なものと価値的・規範的なもの(人権)との統一においてとらえるべきだと考えています。

 その際重要なのが、価値的なものは何かという問題です。この点については、社会契約説的なものとヘーゲル的な一般性・普遍性という2つの角度から把握すべきだと考えてきましたが、従来の論考では明確に示せていませんでした。これら2つの角度を正面切って示したのが「違法の質・相対性と法的関係の相対性(序説)」(立命館法学2013年6号所収。とくにその54~57頁参照のこと。)です。これにより少しは分かりやすくなったのではないでしょうか。

 

(4)「法的関係の相対性」論の提起

 同上の立命館法学論文ではまた、「法的関係の相対性」論を提起しました。これは、折に触れ言及してきたものを、「序説」という形ですが、理論としてまとめたものです。違法の質や相対性は、従来の法益論や規範論からも指摘されていました。けれども、それらが実は法的関係の相対性の表れなのだとの理解はほとんどありませんでした。拙稿は、「法的関係の相対性」概念により、従来もつれていた諸問題の糸をほぐすことができ、しかも刑法の守備範囲をも明確にできるとするものです。

 「警察への虚構犯罪通報は偽計業務妨害か?」(立命館法学2011年3号所収)は、個々の犯罪類型に定型化された形式的違法を機能主義的な目的論的解釈により掘り崩してしまう傾向を批判的に検討したものです。その傾向は、罪刑法定主義を軽視する動きであり、また、刑法上の犯罪と違警罪との区別、つまり「法的関係の相対性」を無視するものでもあります。

 今準備中なのが「詐欺罪の成否と法的関係の相対性」という論文です。「法的関係の相対性」論をさらに深めることが目下の課題であり、残る人生の生きがいのひとつとなっております。

以 上

 

 

 

[資料] 講義「現代の人権」配布教材より

 

自由と友愛、連帯

生田勝義

 

 1 人権である自由と博愛・連帯との関係

 

 人権を、どうとらえるか。近代的な法秩序の基本に「自由」という人権が座っている。自由という人権は、フランス革命期の人権宣言で定義されている。すなわち、「自由とは、他人を害しないすべてをなしうることにある」ということなのだ。それゆえ、第1に、自由という人権は単なる自律、オートノミーではない。また第2に、自由は、国家からの自由を意味するとされるたんなる「自由権」とも区別されなければならない。

 それでは、そのような自由を、基本的人権として、なぜ、うたったのか。その理由は次のことにあったというべきであろう。すなわち、第1に、人々は、自由などの自然権を守るために社会を構成し、その社会を管理する機関としての政府・国家をつくるわけだから、自由が基本的人権とされるは当然のことである。第2に、自由を守るために強大な権力をもつ政府・国家を作らざるをえないという矛盾を解決するために、政府・国家が個人生活に介入できる限界を画するものとして「自由」という人権があった。またそれに加え、第3に、個々人間においても相手を強制するというレベルでは「自由という人権」が限界として作用する、つまり他害行為であってはじめて人々はそれを強制力をもって禁止できるものとされたと考えるべきであろう。

 もっとも、その前提には、一方における法の問題、すなわち国家と個人の問題、個々人間の法的関係と、他方における倫理や道徳、任意の社会的関係とを区別する考え方があったのではないか。すなわち、国家、個々人が強制的に干渉する場合には自由という人権が壁になる。しかし、任意の関係であればそのような壁はない。批判するなら自由に批判しなさい。任意の関係で自由に批判する。倫理、道徳の中で自由にやりなさいと。そのように人々が自由に任意の社会的関係でやれるように、国家がそこに介入せずにやることによって、人々は幸せになり社会は発展するというのが、本来の人権の考え方だったのではないかと思う。

 自由と権利が人権宣言では強調されているのだが、フランス革命そのものは、自由・平等に加え、博愛をスローガンにしていた。博愛、フラタニティが、なぜ入っているかというと、まさに人々は社会的に生存している、互いに助け合っていくということが近代の理念としても育っていたからであろう。これは単なるオートノミー、自律ではない。連携、連帯、インクルーシブ、包容という人間関係が、近代の民主主義思想、法と倫理の関係に入っていたのではないか。自由という人権を今日の法律はベースにしているのだけれども、自由というのは単なるオートノミーではない、国家、個々人が他人に干渉する場合のバリアであると。このレベルで考えていかないといけない。裏返していえば、任意の関係では助け合わないといけない。人間の社会的存在に対応した、あたりまえのこと、人間の当たり前の姿を、強制的な干渉以外のところで実現していくことこそが望ましいというのが、近代人権論だったのではなかろうか。

 なお、フランスの近代市民革命期における人権宣言においても人民民主主義的な勢力の要求を反映して友愛に関係する条項が設けられたこともある。たとえば、「社会」による積極的給付の必要性をうたう1793年のジロンド憲法草案における権利宣言23条(公教育)と24条(公の救済)、同年の山嶽党憲法における権利宣言21条(公の救済)と22条(公教育)がある。それらが「国家」の責務とされるのは、1848年の2月革命をうけた同年11月4日フランス共和国憲法においてである。そこでは「友愛」が自由・平等と並ぶ共和国の「原理」とされ、憲法「前文」では「共和国」が「貧困な市民に対し」「労働を獲得させることにより・・・または、・・・救助を与えることにより、これらの者の生存を確保しなければならない」とされるにいたる。もっとも、「本文」である第13条ではそれらは「社会」の課題という形で規定されている。

 

 2 現代的人権としての社会権と友愛、連帯

 

 法的権利としては自由と平等(実際は封建的特権の否定つまり自由が中心。)がうたわれるのに対し、友愛・連帯については社会内の自主的な取組に委ねるというのが、近代初期の国家や社会のあり方に関する構想・理念であった。しかし、現実には、法的に保障された自由により形成される社会関係が、人々の任意の関係に委ねられた友愛、連帯の社会関係を凌駕してしまう。すなわち、資本主義社会の現実態が自由の名の下での「偶然」と所有の名の下での「欲望」の支配する社会であったことから、社会的にはエゴイズムと貧富の格差、支配と隷従が拡大することになってしまった。人間の当たり前の姿を国家による強制的干渉によらずに実現しようとした構想・理念は、修正を余儀なくされることになる

 そこで登場したのが、社会的な友愛、連帯を政府・国家による法的レベルでも推進しようとする取組である。それが、貧困者に対する公的扶助制度や無産者のための社会保障制度、労働者保護のための立法である。それらを総称して社会法という。

 労働者保護のための立法には、労働者の団結権、交渉権、争議権という権利保障法と、労働基準法や労働安全法といった最低労働条件を保護するための労働(者)保護法がある。前者は労働者の活動の自由を拡大する自由保障法であるが、後者は労働者の労働条件を保護するために使用者の営業権を権力的に制約するものであり、その実効性を権力的制裁によって確保する傾向がある。しかし、労働保護法の充実も、権利保障法の充実と権利主体の自主的活動がなければ絵に描いた餅になってしまうのが現実である。

 国民生活の困難に対し公的な援助を政府・国家により法的に行うことは今日の経済社会の下では不可欠である。そのための国家による行政作用の形態として、人々の自由や権利を制限する侵害行政と、人々に便益を供給する給付行政とが、区別される。公的援助はそれら両者により行われうるのだが、給付行政による方がより直接的・積極的な援助が可能となる。

 もっとも、給付の形態には、個々人へ個別的に施される給付と、施設・設備・制度を公共財として整備して共同利用できるようにする形での給付がある。また、生活費支給か仕事場所の提供かという課題もある。友愛・連帯という観点からはいずれも後者の方が望ましい。

 ところで、友愛・連帯を政府・国家による法的規制に頼って進めることには大きな限界があることにも注意する必要がある。国家法の有すべき一般性が福祉需要の個別性に対応しにくいこと。国にやってもらうという意識が自ら人々と協力して仕事や福祉を作り上げていくという取組を弱くしてしまうことなどである。憲法が保障する自由や権利は「国民の不断の努力によって、保持しなければならない」ものであることは憲法自身が認めるところである(日本国憲法12条参照)。友愛や連帯も、人々の自主的な活動に支えられることによって、社会的存在である本来の人間関係にふさわしいものになることができる。近代の人権宣言が描いた国家・社会の構想・理念は、20世紀における社会法の経験を踏まえ、それを教訓として、これからも追求すべき構想・理念であるのではなかろうか。

 

 3  友愛・連帯と刑事政策・・・人権軽視の厳罰主義への対案

 

 そのような人権のとらえ方は、刑事政策のあり方を考える上でも参考になる。

 今日では、安全と自由を両立させる市民刑法でなく、漠然とした不安感に応えるためと称して予防警察の課題にまで刑法を動員しようとする傾向が強まっている。そのことが自由を侵食しつつあることはすでに述べたとおりであるが、さらに次のことにも注意を要する。すなわち、刑法が動員されるということは予防警察が益々重視され、拡大・強化されているということである。「人権を保護するために防犯活動をやりましょう」、「監視カメラをつけましょう」、「不審者情報を出してください」などといった取り組みの中で予防警察が拡大・強化されている。そのもとで、異なった人、マイノリティに対する排除の思想が強くなってきている。そのような排除によって不安感は増しこそすれ、減じることはないのに、である。

 排除の思想は本来の人権の考え方とは違う。人権はあらゆる人を平等な主体とし、あらゆる人に等しく保障される。その意味で普遍的で一般的なものである。その意味において、排除の思想とは正反対のものである。

 また、法的な自由や権利が個々人の自立性を強調しているのは、強制の働く法的な関係においてであって、そうでない任意の関係である社会のレベルでは人々は包容しあう。連帯しあう。そういう関係をもたらさない限り、人権そのものも実は保障されないということである。

 以上のことを考えると、今日、犯罪を本当に防止しようとすれば、防犯活動型の犯罪対策ではなく、どうやって相互信頼で包容し合えるような地域をつくっていくか、職場や学園をつくっていくか、この課題こそが重要なのである。それにより、結果として犯罪が予防できる。安全が保障される。自由と安全が両立できる。これこそまさに人権論の延長線上にある刑罰観、犯罪予防観であるというべきであろう。

 

4 おわりに・・・現代を人間らしく生きるために

 

  • 暴力では問題を解決できないこと

 確かに、暴力によっても、一時的に問題の噴出を押さえつけることはできる。しかし、抑圧されることによってたまったマグマは必ず出口を求めるものだ。

 そのことは、身近な問題から、国家間・民族間・宗教間の問題にもあてはまる。

 刑罰も、合法的だが「暴力」であることにかわりはない。

  • 他律の限界、自律や内発的規範意識の重要性と人権との関係

 規範遵守を強制することによりなされる規範遵守は「他律」である。他律は監視や取り締まりが及ぶ範囲で機能する。しかし、監視や取り締まりの及ばないところでは規範無視が横行する。独裁国家では、禁止されているにもかかわらず公務員による密かな収賄やたかりが横行する理由もそこにある。

 規範は、内発的規範意識に担われ、自律となることによって、最もよく機能する。自律になるには、規範の重要性を理解し、納得することが不可欠である。

 そのためにも、学習権、知る権利、表現の自由などの人権保障と、そのもとでの任意の関係による相互批判と相互援助が重要となる。

  • 人間の尊厳の相互承認とそれを可能にするもの

 人権は、あるがままの具体的な人間の尊厳、すべての人間に共通する一般性、普遍性、を相互に承認することにより具体化される。

 そのために必要なのが、まず理性的な対話、コミュニケーションであり、それによる協調である。それを妨害する有形、無形の暴力を跳ね返す合法的な力を与えているのが言論などの表現の自由である。任意の関係のコミュニケーションにおいて個人的な気分や気持ちを害したというだけで公的権力の介入を求める動きがあるが、これは自らの首を絞めるようなものだといえよう。

 問題は、自由なコミュニケーションや協調を可能にする条件にある。意識改革が必要だといわれるが、意識は意識を変えよと啓蒙するだけで変わるものではない。意識を変えざるをえないような客観的な事情、とりわけ人間関係の構築が重要なのである。

 その人間関係は、身近な学園や職場、地域から、広く社会システム全体に及ぶ、人権を相互に尊重し合う自由で民主的な人間関係であるというべきであろう。

 以 上

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